日本植民地時代の台湾人政商、許丙

本来なら林献堂の続きを書かなければいけないんですが、まだ完全でないのと、たまたま見た『中国時報』(台湾の日刊紙)に「台湾人在満州国」という特集があり、そこである人の名前が出てきたので、そちらを先に出します。

その人の名前は許丙(1891−1963)。主に日本植民地時代の台湾で実業家・政治家として活躍し、短期間ながら貴族院議員の地位にもあった人です。
許丙は台湾淡水の生まれ。日本植民地支配の開始後、台湾総督府国語学校を卒業します。その後、板橋(今の新北市板橋区)の大地主であった林本源家に就職。(林本源家は霧峰林家をもしのぐ台湾漢族随一の富豪でした。)当主林熊徴の秘書などを務め、後に多くの会社の経営に参加していきます。

許丙は日本の植民地支配に対して積極的に協力する姿勢を見せ、1930年に台湾総督府評議会員(台湾総督府の諮問機関)に任じられます。1934年に満州国が「帝政」に移行する際、それまで日本により「執政」の地位に留められていた溥儀に、許丙は帝位就任の情報をいち早く伝えて溥儀の歓心を買い、満州国宮内府顧問に任命されます。また満州に対し多額の投資を行いました。当時の台湾軍(駐台日本軍のこと)は許丙を、「台湾人を日本側の思惑に沿って束ねる者」と評価し、軍は許丙が活動拠点を台湾から東京に移した際に、これでは日本側の台湾人統制に支障が出るのでは、と危惧したといわれます。

こうした対日協力ぶりが評価された結果、彼は太平洋戦争末期の1945年に貴族院議員に勅選されました。もっとも東京に登院する機会はなかったようですが。

第二次世界大戦後の1946年2月、中国側から旧日本軍と結託して台湾独立を企んだ容疑をかけられ、国民党政府の台湾警備総司令部に逮捕されます。(台湾独立事件)この時には許丙と同じく貴族院議員となった簡朗山(日本名として緑野竹二郎を名乗る)や、辜振甫(やはり貴族院議員に任じられた辜顕栄の息子)も逮捕されています。

釈放後はある程度復権し、台湾省政府顧問、中日文化経済協会顧問などを務めた。日本との関係も続いていた様です。

今度続きを書く林献堂とは、いろいろと好対照な人でした。

参考文献
松浦正孝「汎アジア主義における「台湾要因」−両岸関係をめぐる日・英中間抗争の政治経済史的背景−」『北大法学論集』55(3)、2004年
許伯埏『許丙・許伯埏回想録』中央研究院近代史研究所、1996年
中国時報』2013年2月27日