日本植民地時代の台湾民族運動指導者、林献堂(下)

1931年の満州事変の後、全体主義の波が台湾にも波及し、その中で林献堂は受難の時期を迎えます。
1933年、林は台湾と日本の融和を改めて目指すべく、東亜協栄協会を結成し、台中州の地元名士や官僚を主メンバーに迎えます。しかし東亜協栄協会は当時の台中州知事の支持を得られたとはいえ、台湾総督府からは懐疑的な目で見られ、しかも協会の日本人メンバーの多くは日本側の優越を信じていました。共栄協会は皮肉にも協会内の台日対立を解消できないまま、1936年に解散に追い込まれます。

さらに同年、林献堂は旅行先の上海で歓迎会に出た際、「帰回祖国」と述べた事をネタにして『台湾日日新聞』が林を批判しました。(林はもともと「中国人」意識が強く、自らは日本語を使わない等、中国の文化アイデンティティを保持していました)6月にはこの件が原因となり暴漢に襲われ、この後も親日派台湾人や日本当局から圧力を受け続けました。戦時下にあっては林は憲兵隊から24時間の監視を受けていました。

一方で、30年代半ばから始まった台湾の皇民化運動においては、林は当局側から協力を要請され、林はこれを断り切る事は出来ませんでした。

太平洋戦争末期の1945年、林献堂は台湾人有力者の簡朗山、許丙と共に貴族院議員に勅選されます。これは日本が総力戦に備えて台湾側を懐柔するための措置であったのですが、日本本土と台湾間の交通は既に途絶しており、林が実際に登院することはないまま終戦を迎えます。

終戦後、林献堂は名士として台湾の秩序維持に努める一方、台湾の新たな支配者となる中国国民党との関係構築に努めました。1945年12月には家族と共に国民党に入党します。

1946年4月には台湾省参議員に選出されますが、参議会議長選出の混乱から7月には辞職します。この背景には台湾本省人を疑っていた台湾省行政長官陳儀の態度があったと言われます。この後、国民党の失政を見た林献堂は次第に失望を深めていきます。

1947年の228事件の際は慎重を期して台中から動かず、厳家淦(後に蒋介石の死後一時的に総統となる)ら外省人を保護しました。この事もあり、林献堂本人は国民党による粛清の対象となりませんでした。事件後、国民党政府により林は台湾省政府委員、台湾省文献委員会主席委員に任命されるが、全く実権のない職でした。

1949年、林献堂は日本に旅行し、その後健康悪化を理由に帰台しませんでした。台湾では林が中国共産党と連合した、或いは国民党政府が彼を逮捕しようとしているなどという噂が絶えず、台湾に居られなくなっての事実上の亡命であった様です。1956年、東京久我山で死去しました。台湾に残った林献堂の子孫は彰化銀行や明台産物保険など、台湾の金融・保険業で活躍しました。最近では歴史学者で台湾国史館館長を務めた林満紅が彼の一族から出ています。

参考文献
黄富三『林献堂伝』国史館台湾文献館、2004年
向山寛夫『日本統治下における台湾民族運動史』中央経済研究所、1987年
何義麟「台湾知識人の苦悩」松浦正孝編著『昭和・アジア主義の実像 帝国日本と台湾・「南洋」・「南支那」』ミネルヴァ書房、2007年