日本植民地時代の台湾民族運動指導者、林献堂(中)

他事にかまけて時間があいてしまいました。その割には記事は充実していないのですが・・・。

1920年12月、林献堂は東京で在日台湾人留学生組織「新民会」の代表となります。同時に台湾人の政治運動について従来の同化主義から自治主義へと自らの方向を転換し、日本内地の帝国議会とは別に、明治憲法下で台湾議会を新たに設立する運動を開始しました。これはアイルランドなどを参考にした、一種の「二重帝国」の試みです。
林献堂たちは早速、同月の帝国議会に最初の台湾議会設立請願を提出しました。以降、1927年の第8次請願に至るまで林献堂は請願の中心にありました。請願自体は却下され続けるのです、運動に対する台湾人の支持は大きく、運動を通じて林献堂は台湾人随一の名士となっていきます。

台湾議会設置運動と並んで、林献堂は1921年に蔡培炎、蔣渭水らと台湾文化協会を設立しました。台湾文化協会は台湾人への文化啓蒙を通じて反植民地支配運動を惹起する狙いがありましたが、台湾議会設置請願運動とも密接な関わりがありました。

こうして台湾の自治運動・反植民地運動の中心となった林献堂に対し、台湾総督府は様々な圧力をかけていきます。総督府はまず1921年に林献堂を台湾総督府評議員に任命して懐柔を図ったが効果が無く、1923年に林を一旦罷免しました。また同年に総督府側は「林献堂は総督府と妥協した」という流言を流し、このために運動参加者から誤解を受けた林献堂は一時台湾議会設置運動から退かざるを得なくなります。また同年には治安警察法の延長に伴い、総督府は協会最高幹部の林献堂、蒋渭水に対し、文化協会では政治活動を絶対行わないよう警告しました。実際同年末には「治警事件」が起き、蒋渭水など台湾人の政治運動家が多数検挙されています。

1927年になると台湾文化協会は共産主義派に主導権を奪われ、これを嫌った林献堂らは協会を脱退し、新たに台湾民衆党を結成しました。しかし民衆党でも林献堂ら穏健派と蔣渭水ら左派の対立が生じ、林献堂は民衆党を脱退して1930年に台湾地方自治聯盟を結成しました。この後林は日本当局との直接対立は避け、台湾の各地方レベルの自治運動へと運動の重点を移しました。成果が上がらなかった台湾議会設置運動については総督府の圧力もあり、1933年に正式に終了させました。(続く)