インドから来たコミンテルンの使者 M.N.ロイ(下)

コミンテルンやインド共産主義運動で実績をあげたローイは1927年、コミンテルン代表として、当時国共合作を行っていた中国国民党武漢国民政府に派遣されます。しかしローイが中国に到着した直後に、蒋介石による4.12クーデターが起きて国民政府は武漢と南京に分裂し、国共合作を継続していた武漢の国民政府は窮地に陥いるのです。

この問題に対して開かれた第8回コミンテルン執行委員会総会では、中国共産党に対して武漢政府支配地における労農革命の一層の推進と、武漢政府を支配する中国国民党左派との連携維持を指示します。これに基づきスターリンは6月、武漢政府の顧問であったボロディン宛てに電報を出し、武漢政府の北伐を支持すると同時に武漢政府支配地内での土地革命や、武漢政府内の「反動的」な将校の処罰、共産党員の武装化、労働者農民を武漢政府の国民革命軍に加入させる事など指示しました。要は危機を打開するために武漢政府を一気に左傾化させろ、という事です。

こうした要求は当時の武漢の国民党側が受け入れられるものではありません。もともと亡き孫文も国民党も「三民主義」という独自の思想に基づいて行動しており、共産主義とは部分的に妥協してきましたが全面的に受け入れることはしてきませんでした。しかしローイはこの電報を武漢政府の指導者であった汪兆銘に見せ、スターリンの方針に従う事で汪兆銘が自らの権力を維持するように期待します。またローイは後に「汪兆銘ソ連からの必要な資金援助がすぐに武漢政府に来る事を条件として、この要求に応じた。」と述べています。しかし実際のソ連からの援助額は約束された金額と比べてあまりに少なく、結局汪は武漢政府からの共産党追放を決定しました。

武漢から追放されたローイはモスクワに戻りますが、彼は既にスターリンからの支持を失い、政治的立場を失くしていました。モスクワに居られなくなったと感じたローイはブハーリンの協力を得てベルリンへと去ります。ベルリンにてローイはアウグスト・タールハイマーらのドイツ共産党反対派に加入し、1929年にコミンテルンから追放されました。

モスクワから抜け出した後のローイは、インド共産主義運動について「インド国民会議派らの民族主義運動と連携すべき」と考えました。当時のインドでは民族主義運動が急進化していた事に加え、中国の国共合作を崩壊に導いた「封建的軍閥」にあたる存在が、インドには存在しないというのがその理由でした。そしてコミンテルンがとっていた小ブルジョワジーまでも敵視する階級対決政策は、かえってインド社会からの支持を失っていると批判します。

インド共産主義運動を自ら指導するべく、ローイは1930年末にインドに秘密帰国します。ローイは警察に追われながらもインドにてローイ派を結成し、インド労働運動の主導権をかつて自分が創ったインド共産党から奪取しました。またネルーらと連携して1931年のインド国民会議派カラチ大会に出席した。そして1931年7月にローイはインド警察に逮捕され、1936年まで入獄します。

ローイが獄中にいた1933年末、ローイ派はインド共産党と和解しました。後にローイ派とインド共産党インド国民会議に参加し、国民会議の左派グループである会議派社会党の一部として活動します。こうした動きの背後には、各国の民族主義運動との和解を進めたコミンテルンの態度がありました。ローイもコミンテルンの動きを評価し、もはや自らとコミンテルンとの間に対立は無くなったと考えて、復帰の意思をコミンテルンに示しましたが、コミンテルンからは拒絶されました。彼は同様にインド共産党と自派との合併を求めましたが、これも拒否され、ソ連コミンテルン国際共産主義運動には生涯復帰できませんでした。

ローイは1936年に釈放されると、自身もインド国民会議に参画します。しかし1937年になると彼とローイ派は会議派社会党から離脱しました。

ローイ及びローイ派はインド国民会議内には留まり続けたが、国民会議内ではガンディーらとの対立を深め、孤立弱体化していきます。1940年には国民会議が「第二次世界大戦に際しての対英非協力」を訴えたのに対し、ローイ派は反ファシズムの立場から対英協力を主張しました。この事がローイ派の凋落を決定づけ、大戦後にローイ派は解散しました。

大戦後のローイは政治から離れ、晩年は急進的人道主義(ラディカルヒューマニズム)の運動に従事したとのことです。

参考文献
J.P.ヘイスコックス著、中村平治、内藤雅雄訳『インドの共産主義民族主義 M.N.ローイとコミンテルン岩波書店、1986年

石川禎浩『中国近現代史3 革命とナショナリズム岩波書店、2010年