インドから来たコミンテルンの使者 M.N.ロイ

ダイアリーに移ったのはいいのですが、このまま何日も放置するのもなんですので、ネタを一件。(旧ブログには(http://taizonrekireki.hatenablog.jp/)中国初期国会や、民国期広東政権のお話がありますのでもし興味がありましたらどぞ。)

といってもいきなり濃いネタになるんですが、近代の中国史に興味のある方で、「ロイ」という名前にピンとくる人はどれくらいいるんでしょうか。あんまりいないような気もしますが・・・
ある程度マニアックに学んでいる人なら、「第一次国共合作をぶちこわした人」くらいのイメージは持っていたりするかもしれません。中国史の上でこの人が出てくるのは、「1927年、第一次国共合作の末期に汪兆銘に対して不用意にスターリンからの指示を見せてしまい、その結果蒋介石に続いて汪兆銘も合作を止めた」という、かなりネガティブな役回りにおいてです。そもそもこのロイさん、何人なのかもすぐには分からなかったり私はしました。

ダイアリー最初の話では、このロイさんについての簡単な紹介からにしたいと思います。まずは中国にやってくるまでの経緯から。

このロイさん、インドのベンガル生まれの人で、正式名はマナベーンドラ・ナート・ローイ。原名はナレーンドラ・ナート・バッターチャールヤ。生年は1886年1893年の2説があるようです。

このローイことバッターチャールヤ、バラモン階層の両親のもとで、イギリス統治下のイギリス領インド帝国ベンガル州の24パルガナ県で生まれます。少年期のローイは反英民族主義団体に身を投じ、1911年と1915年に一時逮捕されています。更には1916年、バッターチャールヤは反英蜂起のために武器をオランダ領東インドから密輸しようとしたが失敗、9月には団体がインドで弾圧され、バッターチャールヤもインド当局から起訴されてアメリカに逃れるという、かなり波乱な青年期を送ります。

アメリカに逃れたバッターチャールヤは当地でローイと改名し、ニューヨークに滞在する中で次第に民族主義への疑問を抱き、共産主義へと接近していきます。1917年、ローイは不法入国の容疑でアメリカ当局に起訴され、今度はメキシコに逃れました。ここでローイはコミンテルンの活動家で知られるミハイル・ボロディンと出会い、共産主義に本格的に転向しました。

メキシコでローイは、ロシアにあったコミンテルンからメキシコ共産党代表と認められ、1920年の第2回コミンテルン大会に出席しました。ここでローイは民族・植民地問題についてのテーゼを起草し、「民族主義者と同盟すべきではない」と主張しました。

同年にローイはコミンテルンからウズベキスタンタシュケントに派遣され、当地に集まっていたインド人亡命者を組織してインド共産党を結成します。その後インド国外からインドの共産主義・労働運動を指導したローイはコミンテルンで評価され、同執行委員、最高会議幹部会に選出されます。(続く)